佐渡で寺社巡りをする際に絶対に外してはならないのが蓮華峰寺。
紫陽花寺としてよく知られていますが重要文化財に指定されている建築もおすすめです。
新潟県最古の木造建築、かつてその建物の前に立ったであろう人間の思いを垣間見ることができます。
今回は蓮華峰寺の重要文化財である金堂、弘法堂、骨堂の見どころを中心に書いていきます。
まず蓮華峰寺概要
大門から始まり鐘楼、八角堂、仁王門、金堂など多くの建物があります。ほとんどが有形文化財に登録されており、その中でも金堂、弘法堂、骨堂は国の重要文化財に登録されている貴重な建物です。真言宗の寺ですが境内に小比叡神社があります。この本殿と石鳥居も重要文化財に指定されています。
正式名称は小比叡山蓮華峰寺。
最大の萌えポイントは京都から見て鬼門に当たる蓮華峰寺は都の鎮護のために開かれたという説があることです。説というか寺伝にそうある模様。
きっちりと中二病を罹患し免疫とした身にはそそる設定でしかないです。
都を鎮護する鬼門の寺とか字面だけでワクワクします。
小比叡とつくだけあってその説を補強しているようにも思えますが開祖は弘法大師と伝わり、現在は真言宗の寺です。
元々真言宗の寺として始まりましたが、途中一時的に天台宗(総本山は比叡山延暦寺)になった時期があったようなのでその名残なのかな?
とはいえかつてこの地で小比叡騒動といういさこざがあり寺の歴史に関する資料がほとんど焼失してしまったので詳しい歴史はわからないのです。
小比叡騒動とは雑に説明すると佐渡奉行所内の対立に蓮華峰寺が巻き込まれ、奉行所から挙兵されてしまった事件です。
小比叡騒動の際、前述の寺に関する文献の他、客殿や庫裏も焼失しました。
幸いなことに金堂、弘法堂、骨堂などは焼失を免れて今に至ります。
ところがこの金堂、弘法堂、骨堂は明治、大正時代の改修で大規模な変更が加えられます。
特に金堂、骨堂の屋根の変更は甚大で、この変更のために当初の屋根の形状がわからなくなってしまいました。
現在は昭和の調査と改修で大正の改修前の形に戻してあります。
が、上記のように当初の形状がわからないので現状建物の構造や風蝕の具合から考証したり同時代の他建築を参照して直しています。
次の項目からはこの金堂、弘法堂、骨堂について詳しく書いていきます。
なおこの記事を書くために『重要文化財 蓮華峰寺金堂及び弘法堂修理工事報告書』、『佐渡国蓮華峰寺骨堂修理工事報告書』を参照しています。
金堂
まず境内に入って鐘楼を右手に見ながら長い階段を降りていくと右に仁王門が現れます。
そこをくぐった先に金堂はあります。
不思議なアプローチですよね。
大体は仁王門があって山を登っていくように伽藍が展開していくものですが、蓮華峰寺は下っていきます。
金堂を一目見てまず思うのが、でかい!
基壇が高いからなのか?軒付が厚いからか?
軒出は浅く一軒、斗栱も全体的にシンプルな印象で威圧感はないです。
その素朴さと背後の見上げるほど高い杉が馴染み、まさに古刹の名に相応しい雰囲気を醸し出しています。
中央の洗練された一流寺社建築は言うまでもありませんが、地方の無骨さもいいものです。中は公開していません。
柱は全て円柱に加工されています。よく見るとエンタシスになっています。正確には粽(ちまき)といいます。
前述したように明治時代に変更された屋根や壁を昭和の修理工事で直しているので、現在は垂木を含めた屋根部分と正面の建具などが新しいものです。
言い方を変えれば、柱や貫などの構造部分は当初のものが多く残っていることになります。
ちなみに昔の木造建築は基本的に柱や梁などの構造材をしっかり作り、風雨を避けるために屋根や壁でそれらを囲みます。
当然代わりに壁や屋根が風雨に当たり劣化しますが、取り外して新しいものを付け替えればまた新たな寿命を得ます。
法隆寺が1300年の長きにわたって立ち続けるのはそういったメンテナンスを定期的にしているからです。
もちろん構造材もメンテナンスをしますがそのスパンは100年から300年だそうです。
蓮華峰寺の金堂もそういう知恵によって形は変われども今にまで残っているのです。
屋根は現在は茅形銅板葺ですが本来は茅葺です。ただ立地の環境や耐久性を考慮して昭和の修理工事では茅形銅板を採用したようです。
金堂の建築年代ですが、昭和の修理工事の際、部材に「長禄三年」の墨書が見つかっています。
これによって金堂は長禄三年にあたる1459年以前には存在していたことになります。
『重要文化財 蓮華峰寺金堂及び弘法堂修理工事報告書』には「なお応永五年の墨書のある長野県浄光寺薬師堂の木鼻の繰形とよく一致する手法よりみて本建物は応永より長禄の間に建立されたものと推定される」とあります。
応永は1394年から1428年です。室町時代ですね。
世阿弥が佐渡に配流されたのが1434年なので応永の始まりから長禄年間というのは世阿弥の全盛期から佐渡への配流を含めた期間に当たります。
彼の生涯と時を同じくして金堂が建立され今に残っているのは感慨深いものです。ただし佐渡配流中に世阿弥が蓮華峰寺を訪れたかどうかは定かではありません。
世阿弥の配所である新保(又は泉)からだとかなり距離があるので高齢の世阿弥には厳しい道ゆきだったのではないかと思います。
現在の金堂の建立前にも何かしらの建物が立っていた跡が昭和の修理工事に伴う調査で見つかっています。
歴史ある寺なので資料が焼失してしまったことは本当に惜しいです。
骨堂
骨堂とは納骨堂のことです。中は公開されていません。
蓮華峰寺の骨堂は小規模でうっかり見落としがちですが新潟県内最古の木造建築物としてとても貴重な建物です。
この小さな建物からどうしてそれがわかったかというと、「貞和四年」という部材への書き込みがここでも発見されたからです。これによって骨堂はそれ以前には立っていたことがわかります。
貞和四年は西暦に換算すると1348年です。南北朝時代で室町幕府将軍は足利尊氏です。
「貞和四年」の他にも同筆と思われる「筑前国 怡土庄 一貫寺 讃岐房 ⬜︎ ⬜︎ ⬜︎」と三人の名前の書き込みもあります。これは単純に考えるならば筑前国怡土庄にあった一貫寺からの三人の参拝者(おそらく僧侶)によって書かれたことを示しています。
古建築への書き込みというのはあまり珍しいことではなく、今回のような参拝者によるもの以外にも、中には建設に関わった大工によるいたずら書のようなものもあったりします。有名どころは法隆寺の五重塔と金堂でしょう。(詳しくはググってね!ただし後悔しても知らないぞ!)
現代でもたまに旅行者が文化財に落書きしてニュースになっちゃったりしていますが、そういうのは遥か昔からあったようです。
ただ、この骨堂の落書きに関してはなんだか訳ありな背景が浮かんできます。
『佐渡国蓮華峰寺骨堂修理工事報告書』によれば「筑前国怡土庄はいまの糸島郡に属し、一貫山の村名はいまでものこっている。かつてここに一貫寺と称する寺院があり、南北朝の戦乱のなかで、守護少貳頼尚側に属する在地武士の攻撃をうけて焼亡するという事件があった。」と書いている。
そして同書では「貞和四年に蓮華峰寺を訪れた三人の同行は、おそらく暦応の戦乱で一貫寺を追われた僧侶たちであろう。」と考察している。
六百年以上前、寺を追われた三人の僧侶が何を思って亡き寺と自分たちの名前を書いたのか。
再興を願ったのか、かつてあった寺の名前をせめてもの思いで残しておきたかったのか。
ただ単に一貫寺衆見参!だったのか。
今となってはもうわかりませんが、落書きを超えて何だか強い意志のようなものを感じます。
残念ながら内部は公開されていないので彼らの書き込みを見ることはできませんが、骨堂を見る際にはぜひかつてここに立っていたであろう人たちのことにも思いを馳せてみてほしいです。
この骨堂も御多分にもれず大正時代に改修されており、金堂と同様に屋根と正面壁部分が当初から変更されていたようです。
昭和の改修ではそれらを直していますが、当初の形状が不明なので調査した上で推測した形となっています。
ただ報告書には「この建物は長い年月の間に屋根葺替えや小さな修理はあったはずであるが、大きな修理は大正年間までなかったらしい。」とあります。
そしてこの小さな建物が雪国の厳しい環境のなかで残り続けた理由として同書は「部材の断面寸法が大きく、材質がよかったこと、雨漏りなどによる破損も少なくなかったが、維持できる最小限の修理が施されたこと、そして島民の信仰の中にこの建物が常にあったことによるものだろう。」と書いている。実際風蝕や虫害でかなり傷んでいたようですが、「解体修理のさい綿密な調査と入念な施工によって当初材は90%以上を再用することができ」たそうです。
金堂と同じく屋根と正面部分は昭和の修理工事で復旧したものです。それでも六百年の長きにわたってほとんどの部材が佐渡風雪に耐えて残ってきました。
最後に骨堂には用途についての謎があります。
現骨堂の建物自体は「当初より現地にあったと考えられ」ていますが、「当初何らかの性格を持った建物が、(中略)ある時期(江戸中期以降)、一般が納骨する骨堂に変化したと考えられる。」ようです。
つまり貞和四年に一貫寺からの参拝者が書き込みをした時には骨堂ではなく別の用途の建物であった可能性があるのです。が、その前身の用途についてはわかっていません。
私はその前身の用途がとても気になるのです。
一貫寺の三人がなぜあえてその建物を選んで書き込んだのか、建物の本来の用途にも関係していたのか。
もしくは全くなかったのか。
この小さな建物から垣間見えるささやかな歴史がとても興味深いです。
最後に、新潟最古の木造建築としては十日町の松苧(まつお)神社が1497年に建てられています。骨堂よりもかなり規模が大きく用途も違う木造建築なので張り合うのは野暮ですが、江戸時代以前の建築がこうして雪国の県内にいくつも残っているのは誇らしいです。
弘法堂
昔話に出てきそうな佇まいです。
そびえる石段、左右の大杉、この佇まいは必見です。
弘法大師の像が安置されているようですが公開はされていません。
石段は苔むしており雰囲気がありますが雨の日に行くと滑りやすいので気をつけてください。また、山深い立地のため虫さんとのエンカウントには注意が必要です。
弘法堂も昭和に修理工事と調査がされていますが、この工事以前には屋根の上に更に屋根(覆堂といいます)が架設されていたので普及が少なく屋根の形は変えられていません。覆堂は昭和の修理で取り外されました。
こちらも部材に墨書が残っており、慶長13年(1608年)頃の建立と推定されています。
屋根の仕様は栩葺(とちぶき)です。薄い板を重ねて葺いています。
この板の厚さによって杮葺(こけらぶき)、木賊葺(とくさぶき)、栩葺と名称を変えます。
杮葺の板がいちばん厚いようです。ちなみに杮(こけら)と柿(かき)の字は似ていますがよく見ると違います。比べてみよう!
国指定重要文化財。
まとめ
境内には他にも鐘楼や神社など多くの建物がありますが、今回は重要文化財指定の建築に焦点を当てて書きました。(今回は書きませんでしたが境内にある小比叡神社の本殿と鳥居も重要文化財です)
ちなみに私が佐渡に来て初めて訪れた寺が蓮華峰寺だったので鴨の刷り込みよろしく蓮華峰寺といえば条件反射で佐渡観光の要所として勧めてしまいます。
何はともあれ佐渡での、もっと言えば新潟県の寺社巡りをするなら外せないのが蓮華峰寺です。
ロケーションも建築も歴史も折り紙付きです。
もちろん歴史に興味がなくても境内の荘厳とも言える雰囲気を楽しんでいただきたいです。
紫陽花の季節に混み合いますが、春夏秋冬いつ訪れても美しい寺です。
雨の日さえも乙です。
両津の佐渡汽船船乗り場からだと少し遠いですが、小木への主要道路の途中にあるのでアクセスはし易い方だと思います。
アクセス
無料駐車場有り。
拝観料はないようですが基本的に建物の中は見れません。